「手紙屋 受験編」を読んでいてふと思った
昨日の投稿のあとも「手紙屋 受験編」を読んでいます。
この手紙屋という小説では、主人公の女子高生が手紙屋とのやり取りの中で、勉強することの意味を見出していきます。その途中、女子高生は手紙屋から勉強することを禁止されます。どうしても勉強がやりたい、そう思えるまで、勉強することを禁止されているのです。物語では、女子高生が勉強したいと思うようになっても、勉強し続けられるようになるまで、その意味をしっかりと理解するまで、ずっと勉強が禁止されています。完全にお預け状態です。
そのようなやり取りを見ていて、ふとこんなことを考えました。
勉強というのは、自分を鍛えるため、自分をピカピカに磨くための道具だった。では、仕事は何のための道具なんだろう?
勉強を禁止されることで、主人公は勉強の意義を見つけ、勉強し続けるようになりそうだ。では、仕事を禁止してみたらどうだろう?仕事がやりたくてやりたくて仕方なくなるのだろうか?
これは、とても面白い問いかけでした。
「仕事」は何のための道具だろう?
この問いについては、おそらく唯一の正解はないのだろうと思いますが、私なりの答えを見つけなくてはなりません。
なんだろう?
自己実現のため?
社会に貢献するため?
生活のため?
自分らしくあるため?
次世代に何かを残すため?
いろんな考えが浮かびます。これはすぐに答えが出せないように思います。もう少し考えてみることにします。
「仕事」を禁止したら、どうなるだろう?
これもまたとても興味があります。FIREするまでは、仕事をするしか選択肢がありません。会社に在籍しながら、仕事をしないというわけにはいかない。
でも、FIREした後なら、どうでしょう?
私の場合は、FIRE後は仕事をしても、仕事をしなくても良い状態になります。そのなかで、あえて仕事をすることを禁止してみたら、どんな気持ちになるでしょうか?
仕事をしたい、すごくしたい、仕事できないことが苦しい、そんな風に思うでしょうか?あるいは、何も思わないでしょうか?
これにはとても興味があります。
FIREをした後、数か月から2年くらい、仕事を禁止する期間を作ってみようか、そんなことを考えてしまいます。
人生の意味は自分で作ることができる。
この手紙屋の中では、人生の意味は自分でつけることができる、という話も出ていました。
実は、人生の意味は自分で自由につけることができる、という考え方はかなり以前から身に着けていました。
なぜかというと、自己啓発セミナーに参加したことがあるから。
私は20代の頃、とある思い、とあるきっかけから自己啓発セミナーに参加したことがあります。悪く言うと、自己啓発セミナーは一種の洗脳体験です。詳しくは書きませんが、このセミナーの教えの中に、人生は意味なし、というものがありました。これは、文字通り意味がない、という意味ではなく、決まった意味がない、意味は自分で何とでもつけることができる、ということだったのですが、その考えを知った直後はすごい興奮したことをよく覚えています。
正直、今の自分は人生の意味を見失っているという気がしています。なんとなく会社に所属し、会社の業績を上げることを期待され、自分がやりたいことと、自分がやらねばならないことと、自分が期待されていることの区別もできず、あるいは、意図的にそれらを同一視しようとしているように感じています。
さて、FIREをしたのち、私は仕事にどんな意味を見出すのでしょうか。
これにはちょっとワクワクしています。私のことだから、きっと何かしらの意味を見出して、仕事に邁進してしまうのではないか、そんなことを期待してしまいます。